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エドモンド・アッレーグラ Edmondo Allegra

エドモンド・アッレーグラ
Edmondo Allegra (1889 Crevacuore - 1939 Italia)


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1925年、ボストン交響楽団の木管セクション
前列:piccolo / August Battles, flute / Pat Amerena, flute / Gaston Bladet, principal flute / George Laurent, principal oboe / Fernand Gillet, oboe / Jean de Vergie, oboe / Henry Horatio Stanislaus, english horn / Louis Speyer
後列:contrabassoon / Boaz Piller, bassoon / Fred Bettoney, bassoon / Raymond Allard, bassoon / Abdon Laus, clarinet / Edmond Allegra, bass clarinet / Paul Mimart, clarinet / Augusto Vannini, clarinet / Emilio Arcieri



エドモンド・アッレーグラは、クレヴァクオーレと言う山間部手前の小さな街で生まれた。
街は1900年から1970年にかけ人口が増えていったが、現在は1910年頃の人口と同じ1400人ほどになっている。

地元の吹奏楽団でクラリネットを吹いていたが、街の家具職人として働いていて生活は非常に貧しかった。
アッレーグラが25歳になった1914年、第1次世界大戦が開戦した。
この頃にスイスへ移住したが、クラリネット奏者か家具職人として移住したかは分からない。

スイスへ移住したアッレーグラは、1916年から1925年にチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団のクラリネット奏者だった。
1922年3月、ドビュッシー(Claude Debyssy 1862-1918)の第1狂詩曲(Première Rhapsodie)を指揮フィルクマール・アンドレーエ(Volkmar Andreae 1879-1962)でチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団で演奏をした。
チューリッヒではEdomondo AllegraがEdmund Allegraと表記されることがあるようだ。
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1920年10月、トーンハレ室内管弦楽団のプログラム3にAllegraと書かれている。

アッレーグラは、チューリッヒで歴史に残る2人の作曲家と出会った。

パリで賛否両論のクラシック界に残る大改革を成功させたストラヴィンスキー(Igor' Stravinskij 1882-1971)は、夏はウクライナ、冬をスイスで過ごしていたが、1914年に第1次世界大戦が勃発するとウクライナへは帰られなくなり、スイスに滞在する事になった。

スイスのパトロンであるヴェルナー・ラインハルト(1884-1951)の後援により、1918年9月28日にエルネスト・アンセルメ(Ernest Ansermet 1883-1969)の指揮でローザンヌ劇場で初演された。
初演の後、巡業公演を行う予定だったが、第1次世界大戦(1914-1918)中のスペイン風邪の大流行と第1次世界大戦末期の混乱によって巡業は不可能になった

「私は(兵士の物語)の初演を特別に記憶にとどめている。私の友人で協力者であり、一人で財政面の負担をして頂いたヴェルナー・ラインハルト氏に厚く感謝している。その感謝と友情の印として、彼にクラリネットの為の3つの小品を作曲して献呈した。ラインハルト氏は楽器を上手に吹きこなし、しかも親しい人との間で演奏することを非常に好んでいた」

1919年11月8日にローザンヌ音楽院で「ジャズ・コンサート」と題した演奏会をラインハルト主催で行われた。
「クラリネット独奏のための3つの小品」
「兵士の物語」(ヴァイオリン、クラリネット、ピアノ版)
「猫の子守歌」(コントラルトと3本のクラリネット)と「プリバウトキ」~2つの歌曲集
「11楽器のためのラグタイム」(ピアノ独奏版)
「ピアノ・ラグ・ミュージック」、「3つのやさしい小品」、「5つのやさしい小品」

「クラリネット独奏のための3つの小品」は、エドモンド・アッレーグラが初演をした。


フェルッチオ・ブゾーニ(Ferruccio Busoni 1866-1924)は、第1次世界大戦が開戦(1914-1918)した1914年にオペラ「ファウスト博士」に着手していた。
第1次世界大戦中は、ボローニャ・マルティーニ音楽院の校長をしていたが、チューリッヒへ移住した。

ブゾーニは、1918年3月と4月にクラリネット小協奏曲(Concertino op.48 BV276)を書いた。
まず、1918年5月10日に新曲の試奏会をし、1918年12月9日にチューリッヒの地元のトーンハレ管弦楽団、友人の指揮フィルクマール・アンドレーエ(Volkmar Andreae 1879-1962)でエドモンド・アッレーグラのソロで初演を迎えた。
この曲は、ソロを担当したエドモンド・アッレーグラに捧げられた。
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その後、ブゾーニは「エレジー(Elegia per clarinetto e pianoforte BV286)」を1919年9月から1920年1月にかけ作曲し、この曲もエドモンド・アッレーグラに捧げられ、手書き楽譜には「Souvenir de Londres"と書かれていた。
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アメリカへ移住したのち、1925年から1926年にボストン交響楽団の第1クラリネット奏者になった。
その後、1926年から1933年にボストン交響楽団のエス・クラリネット奏者になった。
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1926年のボストン交響楽団の演奏会プログラムとメンバー表。
バス・クラリネットのポール・ミマール(Paul Mimart 1874-1950)は、ドビュッシーの第1狂詩曲が作曲された時のクラリネット科教授で初演者のプロスペル・ミマール(Prosper Mimart 1859-1928)の兄弟。
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1933年、ボストン交響楽団のメンバー表にエドモンド・アッレーグラの名前が掲載された最後の演奏会プログラム。


アッレーグラはボストンにいる間、室内楽や指導も積極的におこなったが、1932年から1933年のシーズンを最後に引退をし、妻のシャーロット(Charlotte)と息子(Claude)と共にトーンハレへ戻った。

1950年頃へイタリアへ戻った。
亡くなるまで寸前まで生徒がいたようだが、彼が誰だったのか不明。

地元の吹奏楽団でクラリネットを吹いていた青年が、チューリッヒのオーケストラでクラリネットを吹き、歴史に名前を残す作曲家たちと巡り合い、ボストン交響楽団の首席、エス・クラリネット奏者になった。
エドモンド・アッレーグラは、音楽教育に負けない音楽的才能と音色を持っていたのだろう。

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写真:エドモンド・アッレーグラの甥が掲載していたクラリネット。








by clarinetto | 2020-05-12 01:24 | イタリア人クラリネット奏者

イタリアに留学していたクラリネット奏者+元イタリア・スローフード協会会員、奥田英之がイタリア各地の音楽院図書館から1800年代に出版され絶版になってしまった楽譜を発掘し紹介しているブログです


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